末木文美士

最澄は晩年二つの論争を惹き起こした。一つは、法相宗の徳一との間で交わされた三乗・一乗論争であり、もう一つは、南都の僧綱との間で交わされた大乗戒論争である。前者は『法華経』の教理的解釈に関するもので、『法華経』の究極的な真理は、小乗の声聞・縁覚と、大乗の菩薩との三つの道を統合し、唯一の仏となる道に帰するとするのが、最澄の一乗説である。それに対して、法相宗の立場に立つ徳一は、一乗説は方便であり、三乗の別のあるのが真実であると主張した。三乗説は、玄奘の請来した唯識説に基くもので、小乗の立場もありうるとする現実主義的な立場に立つ。それに対して一乗説は唯一の真理に到達するのを目指す理想主義的な立場ということができる。三乗説は五性各別説(衆生の能力を五つに分け、永遠に悟りを開くことのできない衆生の存在を認める説)に結びつき、一乗説は悉有仏性説(あらゆる衆生は仏の悟りを開くことのできる本性をもっているとする説)と結びつく。 両者の論争は中国でも起ったが、一時期だけで終り、最澄・徳一論争はそれを改めて日本で継承したものということができる。都の新しい学説という点から言えば、法相系の三乗説のほうが注目されるものがあり、最澄の拠って立つ一乗説はむしろ古い説であった。最澄は『法華秀句』中巻で、インド・中国におけるこの問題に関する論争史の資料を収集整理しているが、そのように歴史をひとまず対象化、客観化して、その上に立って議論しようという姿勢は注目される。単なる唐の仏教の輸入ではなく、それを咀嚼した上で、自らの立脚点を求めたということができるであろう。